中国高速鉄道事故 雑感

中国高速鉄道の事故をTVが連日報じている。
報じてはいるが、中国政府の批判を繰り返すだけである。

もちろん、事故原因が明らかになる前に論評するのは、あまり好ましく無いのだけれども、何せ中国なので、事故原因の詳細が発表されるかどうかわからない。まあ、そういう訳でTVを批判しながら、僕もたいした評論はできないんだけれども、技術論的に見ると、典型的な「安全思想の欠落」が指摘できると思う。

ハードの安全性というのはハードの設計に依存する。
一方、鉄道のような巨大システムの安全性は、システム構築上の安全思想が最も重要だ。

通常、鉄道システムの安全性は、事故が起こることを想定して構築される。
これを「パッシブセーフティ」という。事故は起こっても、重大事故には繋がらないようにシステムを組む。
これとは別に「アクティブセーフティ」という考え方がある。これは事故を起さない、という安全思想であり、航空機はこっちを優先する。一度、事故が起これば、致命的だからだ

日本の鉄道ではもちろん、パッシブセーフティが基本であり、新幹線では流石に、一つの車輌が停止しても後続が衝突しないように考えられてはいる。だが、福知山線の事故のように、安全思想が欠落した事例も当然、ある。

技術が輸入技術である場合、特に安全思想が欠如して輸入されることがある。日本で言えば回転ドアの事例が記憶に新しい。欧州から技術導入された回転ドアは、日本ではデザイン重視で大型化し、重量化した。その結果、人を巻き込んでもドアが停止せず、何件もの死亡事故が発生した。

実は、欧州の回転ドアは「重くしてはならない」のが鉄則であり、それは設計図に反映されていたが、その思想を日本のエンジニアは読み取れなかったのである。ドアが軽ければ、人を巻き込んだとしても怪我を負わせずに停止することが出来るのだ。「パッシブセーフティ」の考え方そのものだ。それを無視して、デザイン重視で改造した結果が死亡事故の頻発であった。

中国の高速鉄道の事故を見て、すぐに思い出したのがこの件だ。

安全設計というのは、技術そのものではなく思想に近い。ハードやシステムの設計時に、安全や環境の観点から設計をレビューするかどうか。その行動をするかどうか。これが先進的な組織とそうではない企業とを分ける、一つの基準だ。

健康、安全、環境の3つの頭文字をとった“HSE”は、既に世界企業共通のキーワードとなっている。

中国の高速鉄道のシステムは世界レベルにはまだ達してないのは明らかではある。
この事故の前でも、世界の高速鉄道プロジェクトで中国を採用ようという国は無かったと言ってよい。
今回の事故に対して、中国がどの様に対応するか、世界はそれを見ている。隠蔽などをしていれば、信用は失われることになるだろう。それはすなわち、安全思想を中国が持っているかどうか、それが問われている、とも言える。

ただ、日本でも、そこかしこに安全思想の欠如の事例はある。
単に中国を批判するだけではなく、国内のシステムの安全思想を再チェックしてみる、という視点も必要だ。
事実、東京の地下鉄でエレベーターの落下事故が起こっているのだから。


「地下式原発」という“マンガ”にしがみ付く原発推進議員

 超党派議連の「地下式原子力発電所政策推進議員連盟」が発足した。遂に、原子力は遂に、こんな子供じみた“マンガ”にしがみ付くようになったのである。しかしこれは完全に負け犬の発想であることに気付くべきだ。

 地下式原子力の利点として議連の説明は、①地下だから地震に強い、②地下だから何かあった時に封じ込めることができる、としているようだ。しかしこのいずれのメリットも、空想でしかない。工学的な検証はなされてないのだ。

安全上の意味がない

 まず①地下だから地震に強い、というのは、よく地震の際に地下道の方が安全だ、という言い方をされることからのアナロジーに過ぎない。それは地震に遭遇した個人の安全と、原子力プラントの安全とを混同している考えである。人が地震に遭遇した際には、地上では頭上からの落下物による被害を受ける恐れがあるが、地下道ならばそのリスクは大幅に低減される。
 また地震の揺れは高層ビルほど大きくなるが地下は地震の揺れそのものである。また地上のビルは必ずしも耐震強度が十分ではない、などのことから地下が安全といわれる。
 しかし原子力プラントは既に、地下深く、丈夫な岩盤まで(あるいは硬い地盤まで)基礎を打ち込んでおり、通常のビルとは比較にならない耐震性を有している。地下にあるのと同程度の耐震性があるのでわざわざ地下空間を掘削するという、非常に手間とコストのかかる方式を採用する意味がない。むしろ、地下に建設するということで、十分な基礎工事が出来なくなる可能性の方が大きい。現実には殆ど発生しないと思えるものの、極端に言えば、岩盤崩落の危険だってゼロではない。
 これらの事から「地下式原発」の安全性には、全く根拠がないと言える。むしろコストが高くなる分、電源としての競争力は失われることになる。

封じ込め能力」も空想である

 続いて②の核物質の封じ込め能力についても、全く意味がない。
 原子力プラントは大量の熱を発生するため、常にその熱を排出する必要がある。原子炉で発生する蒸気でタービンを回した後の復水器はそのためにある。だから大量の熱が海に流れ出している。地下式でもこれは同じであるため、地下に完全封じ込めることは出来ない。また空気の循環も必要なので、排気口も必要だ。燃料や人の出入りもある(Candle炉系の原子炉ならばこれは必要ないが)。地上と地下を繋がなければ、プラントとして稼動することは出来ない。従って、事故発生時に放射性物質の排出を地下だから防げる、というのも空想に過ぎない。
 むしろ地上式ですら、福島第一では対処に苦労しているのである。地下式では何もできなくなり、水蒸気爆発を起してしまうリスクが高い。そうなると排気口や出入り口から猛烈な勢いで大量の放射性物質が周囲にばら撒かれる事になる。

乗る馬を間違えた推進議連

 以上、「地下原発」にはメリットが見込めないどころか、デメリットが大きい。大体が「地上だと危険だから地下に入れちゃえ」というのは発想が幼稚である。幼稚である上に、後ろ向きだ。
 危険性(リスク)を認識するのであれば、リスクを低減する方向に原子炉を改良していけばよい。炉の改良を考えず、地下に隠すというのは、原発のリスクを国民から見えにくくするだけであり「負け犬の発想」である。
 何故、国会議員がこのような幼稚な構想に拘るのか?
フリージャーナリストのまさのあつこ氏は「これによって原子力関連の予算や部署を確保することが目的だ」と教えてくれた。そうかも知れない。今回の事故で脱原発が全国で展開され、定期検査で停止された原子炉の再開がおぼつかなくなっている。このままでは原子力ムラが衰退してしまう、それを防ぐために「何でも良いから」構想をうち上げたと見るのは筋が通っている。
 しかし、それにしてもこの推進議連は、乗る馬を間違えたようである。ここまで述べてきたように、この馬では勝ち目は全くない。工学的な合理性の全くない、非現実的な構想に霞ヶ関が乗れば、「霞ヶ関には合理性がない」とばカにされ(少なくとも私は100%バカ呼ばわりする)、原子力への信頼をさらにさらに失ってしまう。
 原子炉自体の安全性を高めていく以外、原子力再生への道はない。そうした単純なことすら、全く理解できない、合理性を失ったこの議連に存在意義はない。

唯一の道は本質安全

 原子炉そのものの安全をどう考えるか?それを実現するにはどうするか?原子力ムラに今一番問われているのがこの課題である。
 原子力がなければ困るだろう?と脅しをかけていていても、もう通用しない。既に東京電力関内では計画停電を経験してしまったのである。この程度の電源のショートであれば、社会は何とか回す事が出来る、という実感を得ている。だからこそ、原発停止を訴えても、うろたえているのは、原子力から利益を得ている人間だけだ。
 原子力を再生するには、本当に安全であることを示さなければならない。技術論として言えば、それは本質安全設計の実現である。
 これまで日本の原子炉は何かあっても自然と停止向かうように設計されているから大丈夫、という説明がされていたが、それも冷却水が確保されていてこその話だ。
 従って、原子炉における、新たな本質安全設計の条件とは「冷却材を失っても、核燃料の溶融が起こらず、系外への放射性物質の放出が発生しないこと」と定義できるだろう。これは現在の軽水炉では実現できない。新たなアーキテクチャの構築が必要となるはずだ。
 この本質安全設計を原子力エンジニアが実現できるかどうかは知らない。しかし、これが実現できなければ、日本での原子力復権はありえないし、許してはいけない。
 少なくとも「地下式原発」などという子供じみたマンガではなく、原子炉再生はこの本質安全設計の実現に取り組んでいく、というのが、正しい道筋だ、と考える。

福島原発事故は原子力からの脱却を早めた

 東日本大震災から2カ月。思いがけずテレビの取材を受け、ラジオに出演するという今までにない経験をすることとなり、週刊誌数誌に自分のコメントが載り、原稿依頼が若干増えた。それもようやく、ひと段落が着いた。
 
 正直、震災まで原子力を容認する立場だった。安全に関してはあまり大きなリスクは無いだろうと考えていた。原発輸出を煽るマスコミのほぼ先頭に立ってたといえるだろう。まさか、これほどの事態が日本で起こるとは思っていなかった。
 
 考えを変えたのは、東京電力と政府が原発のシビアアクシデントに対して、全く機能しなかったのを目の当たりに見てしまったからだ。安全神話を自らが信じ込んでいたため、アクシデントを想定せず、訓練もしなかった。アタフタとただ水をぶっ掛ける。それも当初はヘリコプターで注水という醜態。

 結局は3つの炉がメルトダウン。ECCSも津波で機能しない。通常の2倍の圧力で運転して炉にダメージを負わせるという、プラントのオペレーションとしてやってはいけない事を平気でやってしまう。ベントをすれば環境中に放射性物質が撒き散らされるのだが、心配したのは周辺住民ではなく、原子力が否定されることだったんじゃないかと思う。それ自体、犯罪的なオペレーションだ。そして結局、メルトダウンにより大規模な農業・漁業被害を引き起こした。
 
 東京電力は世界最大の電力会社だけど、原子力事故の前では、補償額の大きさから風前の灯だ。最大の電力会社が自分のケツも拭けないんだから、民間電力会社が原子力保有すべきではない、と考え直した。
 
 もっとも、この仕事を始めたころ(20数年前)は原発への不信をちゃんと持っていた。だから新エネルギーや省エネルギー技術を取材しまくった。その1年後の結論は、「原子力を代替できるエネルギーは今のところない」というものだった。本当に、当時の新エネルギーは、まだよちよち歩きの赤ちゃんのようなものだった。とてもじゃないが、原子力の大体電源としては使えなかった。従って当面、原子力批判は出来ない、と感じたあと、次第に危機感は薄れていった。小さな故障はほぼ毎週、どこかの原発である。柏崎刈羽もあの地震放射性物質の系外への漏洩はわずかだったじゃないか。けれどそれは単にラッキーなだけだった。
 
 柏崎刈羽の際に気付いたことがある。
 原子炉建屋とタービン建屋の耐震強度が異なるという事だ。これでは大きな地震動の際には、二つの建屋を結ぶ配管に応力が集中してしまい、最後には破断してしまう。BWRの場合、燃料棒に直接触れた水でタービンを回すので、配管の中のスチームや水は放射化、あるいは放射性物質を含んでいる。それが配管で破断すれば、簡単に系外に漏洩してしまう。

 今回の地震ははるかに大きく、また津波の被害があったため、こうしたことが起こったのかどうか、まだ検証されていないが、恐らく配管は破断しているだろう。注水当初から水が溜まらないのはそのためだ。
 東京電力津波が無ければ原発は安全だった、と結論付けたいはずだ。それならば津波対策だけで済む。けれど地震で壊れていたという事になると、全ての原子炉を見直さなければならない。それは実質的に原子力発電が長期にわたり運転できないということになる。対策費用も莫大だ。その間、新エネルギーは進展し、原子力は必要なくなっているかも知れない。その危機感が、原因を津波に限定したいという意思に繋がっている。
 
 政府もまた、「安全な原子炉」とすることで、原子力を継続使用したい考えだ。しかし本質的に安全な原子炉は軽水炉では実現不可能だろう。原子炉での本質安全設計は炉のタイプを変えなければならない。「原子炉の本質安全設計とは何か」という設計思想の段階から、原子炉を見直し、「本質安全原子力発電プラント」を作り上げることしか、原子炉の利用継続への道はない。これは原子力のエンジニアの腕の見せ所だろう。
 
 だが、そうした投資にお金を回すよりも、もう新エネルギーにシフトしたほうがいい。20数年前と今では、新エネルギーの技術レベルは大きく進化している。米国では、既に新エネルギーは民間金融機関の有望な投資対象として認知されている。許認可まで長い時間がかかり、リスクのある原子力より、殆どリスクなく短期間で投資回収が出来る太陽光発電風力発電が投資しやすい。
 
 ここ数年、米国の情報を見ると、毎月のように大規模な新エネルギープロジェクトが持ち上がっている。その一方で米国の新規原子力はサッパリ動いてない。どころか中止になったのもあるぐらいだ。成熟した先進国では今後、原子力のような巨大技術ではなく、自然エネルギーによる分散型制御ネットワークによるスマート化が進められていくことで、全体の効率の向上を進められる。
 
 その一方で新興国などはまだまだ原子力が求められている。急速な経済成長に対応する電源として、自然エネルギーだけではやはり力不足。福島原発の事故後でも、トルコやベトナムは日本の原子力発電の導入を進めようとしている。リトアニアでは新規原子力の入札が行われ、GE日立と東芝が参加するという。
 
 急速な経済発展のなかでは原子力は重要だ。だがある程度成長が止まり、成熟化した社会では、原子力から自然エネルギーへのシフトが始まっている。これが自然な形なのだろう。原子力はいわば「つなぎ」の電源であり、日本ではもう時代遅れのエネルギーとなりつつある。
 
 原子力依存から脱却するのに必要な技術・サービスが、社会で認知されだしたのはここ数年のことだ。スマート化による効率化、エネルギーサービスが既存電力のみに委ねられていることの不自由さの認識が広がりつつあるところで、今回の事故は起きた。中央集権型から、地域分散制御型(地産地消型ともいえる)へとエネルギーシステムの考え方を転換させるに十分の出来事だった。福島原発事故は、原子力依存からの脱却を早めたのだと思う。

やっぱり電力自由化は必要だ

 福島原発事故は、世界最大の電力会社である東京電力でさえ、原発事故を単独で補償することが出来ない、という事実を示した。また、いわゆる「計画停電」では電力会社の最大の責務である供給責任を果たせなくなったことを示した。震災の影響とは言え、かつての電力自由化議論に抵抗した際の決め文句「安定供給責任」を自ら放棄してしまったのだ。

 このため、産業界は大きな影響を受けた。これに懲りた産業界は今、自家発電能力の増強に躍起であり、自家発電設備メーカーへの問い合わせが非常に多いという。問い合わせの中味は、非常用発電設備の常用化に関するものから、新設の相談まである。非常用の常用化であれば、多少の改造が必要なだけで、この夏には十分間に合うが、新設となると、今からでは夏には間に合いそうにはない。メーカーの生産体制は近年、縮小傾向だったからだ。

 それも、自由化への電力会社の抵抗が背景にある。
 
 大口需要家への自由化が決まった後、新規電気事業者の参入拡大を阻むべく、電力各社は大口需要家への電気料金を引き下げた。その結果、自家発電のコストが高くなり、企業は必要最低限の非常用発電のみを設置するようになったのである。国内の自家発電設備市場は、電力会社の電気料金値下げによって、急激に縮小してしまい、メーカー側も生産体制を縮小せざるを得なかった。さらに、石油と連動するガス価格の上昇が追い討ちをかけ、CO2削減に繋がる技術として期待されていたガスエンジンの販売も殆ど停止してしまっていた。本来、企業が自身の企業活動を守るべき自家発電能力が十分に設備形成されてこなかった。
 
 しかも、自由化市場では電気料金は低減されたが、一般家庭は自由化されなかったため、寧ろ電気料金は引き上げられた。

 今後、ソーラーセルは国際間での価格競争の時代に入っていくものと思われる。電力供給を電力会社に全面的に依存しなければならない時代は終わりつつある。再生可能エネルギーへのシフトを促し、電力供給のバックアップを保有しておくためにも、やはり電力事業の自由化は必要だ

新たな電力インフラの議論が必要だ

供給責任をどう捉えるか
 福島原子力発電の事故は、既にチュルノブイリの状況に極めて近づいてきている。原子炉および格納容器の爆発を防ぐためには、とにかく水による冷却を続けていかなければならない。だが、冷却も今後どれだけの時間が必要か、今のところ見通しは立たない。数ヶ月か、あるいは数年間かかる可能性もある。この間、リスクは減少するものの、再臨界、および格納容器の爆発というリスクに国民はさらされ続けることになる。最終的にはチュルノブイリと同様。コンクリートで封じ込めるしかない。
 今回の事故には、原子力発電のシビアアクシデントが、どれほどの大きな影響を社会に与えるか、を目の当たりにした。今後原子力のリスク評価はどう変えるべきだろうか?例えば津波を前提としたリスク評価を考える際、どの程度の津波を想定し設備に反映すべきか?
 
 しかしこの議論が殆ど意味を持たない。原子炉全体を包み込むような津波だって記録されているのだから、原子力のリスク評価は不可能ということになり、ある一定以上の重大事故に対しては、金額で補償する方法しかなくなる。そうすと一度のシビアアクシデントで、国家が傾くことにもつながりかねない。基本的にリスク評価指標の変更は現状の維持と同等の意味しか持たない。

 今後原子力をどう扱うかという問題は、電力会社の供給責任をどう考えるか、という問題にリンクする、と思う。電力会社は極めて稼働率の低い設備産業であり、しかも電力を安定的に供給する責務を負っている。そのため、総括原価方式という絶対に赤字の出ない経営方法と、他社との競合のない、市場独占が認められている。
 
 だが、それも発電能力を独占しているという前提があってのこと。実際には現在でも、戸建住宅の屋根に太陽光発電設備が乗り、給湯とともに電力を発生する燃料電池も設置されている。ガスコージェネレーションの発電能力は家庭用も含めて、既に全国で累計約450万kWにも達している。さらにゴミ焼却炉は発電が義務づけられており、新エネルギーも全量買い取り制度の成立で、普及拡大が見込まれる。
 
 電力会社以外の発電能力は拡大する一方だ。
 そのため、これまでの電力会社にのみ供給責任を担わせるだけでなく、その一部を需要側が担うことも可能となってきている。むしろ今回のような計画停電による経済活動の低下を招くよりは、自ら発電能力を持ち、複数の離れた土地からの電力供給契約によるバックアップを持っているという形の方がより合理的ですらある。
 
電力需要とは何か
 「需要に対して供給しなければならない」という時の需要とは、需要全体を指す。少なくともこれまでは、総和としての需要量のみを対象として電力インフラが語られてきた。一般家庭、中圧、高圧といった部門別に総和としての時系列変化は捉えることはできたものの、実際にメーターが今計っている電力が、どこでどれだけ使われているのか、は不明だった。メーターにそこまでの能力がないためだ。
 
 しかし、近年はスマートメーターが登場した。これは電力メーターがエアコンや照明,温度計,セキュリティー機器といった家庭や事業所内の設備系機器などの各機器の稼動状況などをネットワーク経由で管理できるというもの。これにより、漠然とした需要しかわからなかったものが、数値で明確に理解できるようになる。従って、よりきめ細かい電力の管理が可能となり、従来よりも効果的に省エネが可能となる。
 そればかりでなく、地域の小規模分散型発電設備との連係により、地域全体でエネルギーの最適化を図ることのできるスマートコミュニティ化が可能となり、大規模電源への依存度を劇的に減らすことにつながる。ここに至っては大規模集中型電源の代表格である原子力発電の重要性は、低下することになる。
 
 そして最も重要なのが、大規模集中電源から小規模分散型電源へとシフトしていくことで、大規模電源が本質的に持つ大規模災害リスクを小さく分散化することができる。一部の地域で電源がダウンしたとしても、それが周辺地域へ影響を及ぼす可能性は小さい。今回の震災のような大規模災害では、やはり今回同様、大規模な電源喪失が発生するが、少なくとも核物質との戦いは回避されることになる。
 
 少なくとも、今後の電力事業を考えるには、現状のインフラの枠内で議論することに、私は意義を感じない。今、最も求められのは、新たな電力インフラの概念形成からの議論だと思う。そのためにはもちろん、電力会社が今の姿のまま維持されるという前提はあり得ない。電力会社の解体、電気事業の完全自由化も視野に入れて検討すべきだ。

脳死状態の原子力

上関原子力計画で中国電力が、工事を強制的に着手した。

祝島住民の反対運動を避けるかのように、夜中の2時に工事を始めるたという。

反対住民と対峙し、工事作業の妨害をさせまい、と体を張るのは警備会社の社員(いや、アルバイトかもしれない)

そして、ついに反対運動していた祝島のおばあさんが、警備員とぶつかって、怪我をしてしまった。

中国電力の社員は、それを高いところから双眼鏡で眺めるだけだったという。

なんたる怠慢だろうか?

自ら体を張って反対住民の前に立つ気概もないくせに、原子力を力づくで進めようというのだ。自分たちは安全な場所で眺めつつ、反対派を小馬鹿にしながら、原子力を押しつけるのだ。

なんたる傲慢だろうか?

本当に原子力を進めたいなら、こんな強引方法で、自分たちが楽に進められるやり方で、原子力が受け入れられると本気で思っているのか?そう思っているとしたらバカである。

核物質を扱う以上、本質的に原子力は危険性を伴う。しかし技術面、運転面でその危険性は、通常ではほぼ無視していい程度に軽減される。これは事実だ。でもそれを納得して受け入れてもらうには、対話を繰り返し、信頼を醸成していくしか手はない。それが民主主義だ。信頼感が生まれてこそ、納得がある。

明らかに中国電力はその努力を怠ってきた。計画から30年も経っているのに、反対派がこれだけ居るということがその証拠である。

反対派住民はバカではない。だから、原子力推進派のタテマエを見抜いてしまうのだ。安全だから、信頼してもらっていいです、という言葉を安直に受けいれるほど、日本の国民はバカではないのだ。

もちろん、エキセントリックな反対派も大勢いるのも事実。知識はあっても、その解釈が偏っている場合も多い。

だが、そういう人たちを生み出したのも、また推進派なのだ。緻密な対話を拒絶し、「言ってもどうせわかんないでしょ?」という態度を長年続けてきたのは原子力推進派である。

今、上関の問題を目の前にして、原子力行政は何も対処しようとはしていない。またも「バカが騒いでる」程度にしか思っていないのだ。

以前、原子力委員会の会合を傍聴したが、そこでの認識とはこうだ「原子力が受け入れられないのは、マスコミがネガティブな報道しかしないからだ」「危険というイメージが先行し過ぎてアレルギーがある」

あきれかえった。自分たちが受け入れてもらう努力をどれだけしてきたのか。パンフレットをいくつも作る?、文部科学省原子力を受け入れられる用に、カリキュラムを組んでもらう? そんな「楽な」仕事が努力と言えるのか?

生活に直接悪影響を受けない人たちが、その程度の「努力」で受け入れてもらえると思っているのだから、原子力推進の中核はすでに脳死しているとしか言いようがない。

そんな程度の人たちの言うことなど誰が信じるものか。僕だって、今まで何度もそういう人間たちに腹を立ててきた。それでも今、原子力はどうしても必要だと思っている。多くの問題を抱えながらも、今は原子力を使わない、という選択肢は考えられないと考えている。

そう、信じられないのは原子力ではなく、原子力推進派の人々自身だ。



尖閣衝突ビデオ関連で思うこと

流出した尖閣衝突ビデオの内容は想像の域を超えるものはなにもなかった。
所詮、この程度なので、流出することでまたもや騒ぎになってしまったことが正味の損失となった。

このビデオを見て「明らかに中国漁船がぶつかってきた」と断言できる人は、ウソつきか、神様か、無知であるか、のいずれかだ。

ビデオは両方の船の相対的位置関係しか証明できず、それは故意の証明には使えない。従って、日本擁護の立場から見れば「中国船がぶつかってきた」と見え、中国擁護の立場からは「海保の船が進路を塞ぎ、体当たりで漁船を止めようとした」と見える。

それ以上の証明はできない。

簡単な例として、タレントの顔の表情を撮るために、頭にカメラ固定するでしょ?その映像は、顔が動かないのに、体がくるくる回っているように見える。それを見て「この人体が回っている!」と断言するのと、中国漁船が「故意にぶつかった」というのは全く同じレベル。

その程度の映像なんだから、公開したって、何の証拠にもならないし、帰って騒ぎが続くだけで、何のメリットもないと思っていた。

結果は予想通りでした。
これ以上、この件で騒ぎ続けるのは、正味の国家損失だ。

流出させた海保の職員については、組織内の情報をコソコソと「sengoku38」などと、閣僚を中傷するような名前でYouTubeに挙げ、出回ったとみるや、即フェードアウト。パソコン上のデータも消すなど、ビビリまくりの小心者。それ世論が流出に好意的と見るや、「国士きどり」で名乗り出て、「義憤」とは笑わせる。

義憤なら、最初から堂々と告発の形でやるべき。そういう形だったら、僕だって彼を擁護できた。
この程度の人間に対して「崇高」などと持ち上げる石原都知事も本当に浅はかなじいさんだと思う。

さて、この男を裁判にかけられるかどうかはあまり興味がない。海保が処分するべきだ。内部の情報を勝手にネットに公開したという事実を容認するならば、この組織はガバナンスを維持できなくなっていき、組織としての信用を失うことになる。

あと、閣僚が責任を取るべきとの論調があるけど、それは海保の情報管理に関する責任を追認したということなのだろうか?担当大臣が罷免されれば、海保も無事では済まなくなる。当然、件の職員を懲戒免職しなければ、つじつまが合わないでしょう。