脳死状態の原子力

上関原子力計画で中国電力が、工事を強制的に着手した。

祝島住民の反対運動を避けるかのように、夜中の2時に工事を始めるたという。

反対住民と対峙し、工事作業の妨害をさせまい、と体を張るのは警備会社の社員(いや、アルバイトかもしれない)

そして、ついに反対運動していた祝島のおばあさんが、警備員とぶつかって、怪我をしてしまった。

中国電力の社員は、それを高いところから双眼鏡で眺めるだけだったという。

なんたる怠慢だろうか?

自ら体を張って反対住民の前に立つ気概もないくせに、原子力を力づくで進めようというのだ。自分たちは安全な場所で眺めつつ、反対派を小馬鹿にしながら、原子力を押しつけるのだ。

なんたる傲慢だろうか?

本当に原子力を進めたいなら、こんな強引方法で、自分たちが楽に進められるやり方で、原子力が受け入れられると本気で思っているのか?そう思っているとしたらバカである。

核物質を扱う以上、本質的に原子力は危険性を伴う。しかし技術面、運転面でその危険性は、通常ではほぼ無視していい程度に軽減される。これは事実だ。でもそれを納得して受け入れてもらうには、対話を繰り返し、信頼を醸成していくしか手はない。それが民主主義だ。信頼感が生まれてこそ、納得がある。

明らかに中国電力はその努力を怠ってきた。計画から30年も経っているのに、反対派がこれだけ居るということがその証拠である。

反対派住民はバカではない。だから、原子力推進派のタテマエを見抜いてしまうのだ。安全だから、信頼してもらっていいです、という言葉を安直に受けいれるほど、日本の国民はバカではないのだ。

もちろん、エキセントリックな反対派も大勢いるのも事実。知識はあっても、その解釈が偏っている場合も多い。

だが、そういう人たちを生み出したのも、また推進派なのだ。緻密な対話を拒絶し、「言ってもどうせわかんないでしょ?」という態度を長年続けてきたのは原子力推進派である。

今、上関の問題を目の前にして、原子力行政は何も対処しようとはしていない。またも「バカが騒いでる」程度にしか思っていないのだ。

以前、原子力委員会の会合を傍聴したが、そこでの認識とはこうだ「原子力が受け入れられないのは、マスコミがネガティブな報道しかしないからだ」「危険というイメージが先行し過ぎてアレルギーがある」

あきれかえった。自分たちが受け入れてもらう努力をどれだけしてきたのか。パンフレットをいくつも作る?、文部科学省原子力を受け入れられる用に、カリキュラムを組んでもらう? そんな「楽な」仕事が努力と言えるのか?

生活に直接悪影響を受けない人たちが、その程度の「努力」で受け入れてもらえると思っているのだから、原子力推進の中核はすでに脳死しているとしか言いようがない。

そんな程度の人たちの言うことなど誰が信じるものか。僕だって、今まで何度もそういう人間たちに腹を立ててきた。それでも今、原子力はどうしても必要だと思っている。多くの問題を抱えながらも、今は原子力を使わない、という選択肢は考えられないと考えている。

そう、信じられないのは原子力ではなく、原子力推進派の人々自身だ。