私が死刑制度廃止に転向したワケ② -救いは死刑の中にはない

○「赦し」の思想


昔、まだ教会に通っていた頃、神父による説教のなかで、今でも忘れない言葉がある。
 「罪に対する罰は、ある人にとっては重すぎる、またある人にとっては軽すぎる」

どこから引用されたのは知らないが、恐らく聖書の言葉であろう。
人は悪いことをしたら罰せられなければならない。しかしその罰が犯した罪に照らして正当なものであるかどうか、人には判断できない。人間が人間を裁くことには自ずと限界がある。正しい判断は神のみぞ可能なことなのだ。

またこの言葉は、罰が途中で不要となることもある、ということも教えている。

キリスト教の思想の根本には「赦し」ということがある。人はもともと罪を犯すもの(神では無いし、神にはなれないから)。なんとっても人が人となったこと自体がキリスト教では原罪なのである(アダムとイブの失楽園)。

だが、人を愛する神はまた、人を赦す神でもある。これがそれまでのユダヤ教とは根本的に異なっている。その意味ではイエスは世界ではじめて「赦し」という思想を打ち出したといえる。

さて、死刑とはすなわち「赦さない」ということである。

キリスト教的に考えれば、神の下に平等であるはずの人間が人間を赦さないというのはちょっと具合が悪い。西欧社会は長らくこの矛盾を抱えてきた。

しかし第二次大戦後、はじめて国家が人を殺すことは戦争であれ死刑であれ、好ましいものではない、といことが周知され、死刑廃止が相次いだのだ。人はあまりに人を殺しすぎたのである。


○伊藤幸治に見る「救い」

前回の記事で、死刑がどれだけ無力であるかを考えた。そして死刑が無力であるのは彼らだけではなかった。

「死刑を考える上で必読の書」と少年事件データベースで紹介されていた「戦後死刑囚列伝」(村野薫:宝島社文庫)を今、読んでいる。

非常に興味深い。確かにこれは死刑というものを考える上で大いに参考になる。どのような事件で死刑となったか、いつ執行されたか、というだけでなく、死刑囚の内面まで掘り下げて書かれており、人間理解のための参考書にもなりそうだ。著者が参考文献としてあげている資料も多く、怪しげな本ばかり出している宝島社文庫の中では異例の良書である。
 
まだ最後まで読んでいないが、少し興味深いものがあったので紹介する。

伊藤幸治。昭和23年。当時18歳の彼はいつものように仲間を集め、強盗を行った。家にいた二人の老婆を布団巻きにしておいて、家中を荒らしまわった。その間4時間。二人の老婆は窒息した。

「人を殺してどう思うか」という裁判官の問いに伊藤は「アホか!」と答える。もはや救えないと思った裁判官は少年ながら死刑を宣告した。伊藤は控訴を拒否。死刑宣告した裁判官も控訴を勧め、自ら手続きをしたほどだが、本人は「いつまでも刑務所に居なければならない無期刑よりも満足」として控訴を取り下げ、死刑が確定した。しかしそのご少年法の改正に伴って死刑執行がされなくなった。

「生きなければいけない」。伊藤はこのとき始めてそう思ったという。

この本には異常としか言いようの無い死刑囚も描かれており「死刑もやむなし」という気持ちにもなる。
伊藤もそんな一人だが、彼は死刑執行が無くなった時にはじめて、更正への一歩を踏み出すことができたのだ。

付属池田小事件の宅間守の死刑よりも、私は伊藤の更正に安堵する。

これこそ、私の求める事件の解決、そして救いなのである。



○赦さなくなった日本人

改めて考えてみよう。残忍にも人を殺してしまった人間に対して、我々が望むものは次の二つのうちどれか。

①殺人犯の死体
②殺人犯が自らの行いを反省し、悔後の涙を流し、まっとうな人間として生まれ変わる姿。

少なくとも私が求めるものは①ではなく②である。そして人類もまた、これまでの長い歴史のなかで、①ではなく②を選びとろうとしている。

我々は諦めてはいけないのではないのか?
人は変われるものなのだ、と信じ続けることこそ、人として正しい道なのではないか?

少なくとも、「推定無罪」の状況にある人間に対して、禄に何も知らない人々が死刑を要求する10万人もの署名が行われてしまう今の日本は、明らかに異常である。これは善意であるかもしれないが、正義ではない。

まるで「衆愚裁判」としかいいようがない。

「人を罰しようという衝動の強い人間達には、なべて信頼を置くな!」 ―ニーチェ

私が再び死刑について考えることになったのは光市事件である。弁護士バッシングというとんでもない状況に陥っているなかで「それは正義ではない」と指摘しただけで、沢山の反論がきた。しかもその殆どが反論にすらなっていないただの感情論なのである。

「この犯人には死刑を望む」と当事者でもなく、裁判を傍聴したのでもなく、裁判資料を読んだわけでもない一般人が、テレビ報道だけで刑を決めてしまう。

しかも悪いことにそれを彼らは善意だと思っているのだ。

「地獄への道は善意で敷き詰められている」(聖書)


この状況で裁判員制度が始まれば、例え量刑が妥当な罪だとしても、死刑になってしまう。もしそれが冤罪だったら取り返しのつかないことになってしまう。そのリスクがある以上、裁判員制度も死刑も辞めなければならない。

日本の刑罰も裁判も「赦し」を用意している。それが近代法の大前提である。ところが今の日本の状況はそれされも否定しつつある。


「日本はキリスト教国ではない。従って、赦しの思想など必要ない」
もしそう考える人が居るとすれば、次の言葉を記そう。

 「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」

 親鸞聖人のこの考えは、世界3大宗教をはるかに凌駕するほど巨大な「赦し」の思想である。
 日本はこんな凄いことを言える思想家を生んだ国なのだ。しかし我々は今、親鸞の足下にも及んでいない。

徒に死刑を叫ぶことで、一体何を解決できるというのか。
少なくとも私が求める真の解決や救いは、死刑の中には決して存在していないのだ。


ゆえに私は死刑に反対する。


○最後に…
前回の記事で「殺されたものの人権はどうなる」と書いた。
当時の私の偽らざる考えだった。

しかし、死んだものの人権は保護しようがないのだ。
これは法律の限界なのである。

殺されたものの人権より殺したものの人権が優先される。
これは法律の前提なのだ。

これを超えられる法律論は今のところなさそうだ。


また、被害者遺族の気持ちを考えろ、という声も強い。

しかし刑事裁判において、被害者遺族は裁判の当事者ではない。
刑事裁判は害者遺族のための裁判ではない。
それは民事裁判で行われるべきなのである。刑事裁判ではない。
被事件の害者遺族へのケアは刑事裁判ではなく、もっと別の形でなければならない。

刑事裁判で被害者遺族の意見を取り入れて死刑にして、それが冤罪だった場合、
被害者遺族はさらに苦しむことになるだろう。

死刑=遺族の救いではない。


付記

●「さて・・・こんな男をどうすればいい? 銃殺か? 道義心を満足させるために、銃殺にすべきだろうか? 言ってみろよ、アリョーシャ!」
「銃殺です!」
「つまり、お前の心の中にも小さな悪魔がひそんでいるってわけだ」

●「もし他人の悪行がもはや制しきれぬほどの悲しみと憤りでお前の心をかき乱し、悪行で報復したいと思うにいたったなら、何よりもその感情を恐れるがよい」

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟」)