私が死刑制度廃止に転向したワケ① 無力なる死刑

○死刑判決を受けてもなお人は…

 もともと、死刑制度に関しては「好ましくはないけれども仕方ない」という考えだった。しかし最近になって、やはり「死刑制度は廃止」すべきであるとの考えに至った。今までの変遷を鑑みると、また若干変わるかもしれないが、おそらく死刑制度を否定すること自体はもう変わらないと思う。

 大学は左翼系の多い大学であったが、学生時代からサヨク運動家とは距離を置いていた。彼らの主張が「理想的」で「教条的」であったためもあるだろう。特に死刑問題についても、心情的には廃止して良いならその方が良いに決まっているとは思っていたが、人権のみから論じてしまう彼らの考えにはあまり賛同できなかった。

「犯罪者にも確かに人権はある、しかし殺されたものの人権(あるいは無念)は一体どうなる?」この疑問への答えは当時、用意されていなかった。

 その後、ある死刑囚(元警察官、殺人罪)の書いた文書に触れる機会があった。それは公表されているものではなく、私の家族が参加している同人誌に寄稿されたものだ。
 そこには「私は殺したことを後悔したことはない。殺されて当然の人間を殺したまで。私が殺したことによって、(被害者の)犠牲になる人が増えるのを止めた」というようなことが書かれていた。全編、言い訳に終始していたのだ。
 それは人間の業というものか。警官でありながら人を殺して死刑判決を受けているのにも関わらず、反省の言葉がそこには皆無だったのだ。当時、死刑廃止運動に参加している知人が居たが、その彼もこの死刑囚に関しては「反省していない」ということを憂いていた。

 「人はどこまでも自分を正当化せずにはいられないのか。責任を他に転嫁せずには居られないものなのか」。
これを人の業というのか、人の本性がここまで卑小なものであることにあきれ果て、そして悲しかった。
「死刑宣告を受けても反省しないような者がいるからこそ、死刑は廃止できないのではないか」そう思った。

 しかしその一方で、別の考え方も同時に生まれたのだ。
「死刑判決を受けてもなお、人が反省をしないのであれば、死刑という刑罰に一体どれほどの意味があるのか?」
「死刑という形で犯罪者の人生を終わらせことは、むしろ犯罪者にとって最も楽な処罰ではないのか?」

死刑とは無力なのではないのか?


○死刑を自殺の道具とした宅間守の哄笑

 それから長い時間がたち、再び、私が死刑に目を向けたのは、あの忌まわしい事件「大阪教育大学附属池田小事件」である。事件そのものも惨いものであったが、その犯人である宅間守は私により強烈な印象を残した。

 ある日突然、小学校に乱入し、8人もの子供を殺した宅間守は“当然ながら”死刑判決を受け、そして判決から1年足らずで執行された。
 しかし彼の死刑判決が決定した時に私は、「死刑なんてもったいない。彼を研究材料として、新たな知恵を生み出すべきだ」私はそう思ったのである。類まれなる研究材料である宅間守を殺さないほうが良い、と。
 しかし、そんな甘っちょろい考えをあざ笑うかのように、宅間守は判決から1年後という極めて時に死刑執行された。しかし私にはこれで事件が解決したようには全く感じられなかったのだ。

 宅間守は、最初から死刑を望んでいた。
ウィキペディアにはこう書かれている。
「宅間は高校時代から自殺願望が強かったこともあり、死刑確定後は早期の死刑執行を望んでいた。宅間が主任弁護人に送った遺書で刑事訴訟法第475条第2項で規定された「死刑確定後の6カ月以内の死刑執行」を訴えていた。」

当時、誰もが宅間守の死刑執行要請は彼の強がりでしかないと捕らえていた。
しかし、「宅間は処刑の際、自ら1人だけの足で絞首台に向かったため、事実上首つり自殺したと言える。」(ウィキペディアより)

 宅間守にとって死刑制度は「自殺の道具」に過ぎなかった。本人の要望に基づく死刑執行は「国家による自殺幇助」に過ぎない。
 よもや、死刑にこんな使い道があるとは思わなかった。
 死刑を自殺の道具にするためには、多くの人間を殺してしまう必要がある。そんなことがあってよいのだろうか?言葉を変えれば死刑があったからこそ、8人の児童は殺されたという可能性があるのだ。
 今に至るまで、この点を問題視した意見をあまり見たことが無い。
 私の考えはあまりにバカバカしいのだろうか?それならそれで良いのだが…。
 しかし、私には宅間守の哄笑が聞こえるような気がするのだ。
「お前ら、まだ“死刑”なんかにしがみついてるのかい?(笑)」

 死刑を執行されてもなお、宅間守はその無力さを見せ付けている。彼は自分を否定しただけでなく、「法治国家」をも否定して死んでいった。彼の望みは叶えられたが、残された我々には無力感しか残らない。
 これで一体何が解決したというのか。


松本死刑囚は神となる?

 オウム真理教松本死刑囚もまた、自らの内部に沈み込んだまま、出てこようとしない。
 このまま彼の死刑を執行したとしても、またしても我々は何も得られないまま、終わってしまう。
 いや、彼の場合、死刑執行したその瞬間から、現存する信者達から神と崇められるようになるだろう。「イエス・キリストの再来」。そうした称号が与えられ、アーレフの結束力、信仰心は否応なしに高まることになる。
 彼の死刑を執行することは社会的リスクを高めかねないのである。

 死刑は本当に有効なのだろうか。


 後半に続きます。(多分1週間後ぐらいにアップの予定です)