「内部化」による社会の高度化

 世界経済は長いこと、環境や安全にかかわるコストを、「経済」の枠からはずしていた。その結果、環境悪化、衛生悪化という経済の悪い側面が表面化し、今や地球温暖化という問題にまで発展してきた。
 その反省から経済では環境コストを内部化する取り組みが続けられてきている。最近では、大企業が環境保全に関する投資を積極的に行うようになってきた。「環境保全は後ろ向きな投資である」という考え方は、この10年でほぼ消えたといっていい。
 環境保全コストを経済に内部化することで、企業はよりエクセレントな組織に進化し、新たな市場の出現・拡大という「利益」が生まれてきたのである。
 外部化されていたものを、内部化することで、社会は進展していくというひとつの事例だ。

 この観点で差別というものを考えることができそうだ。差別とは、特定の集団、人種を自分たちの社会の外部に置くことから始まる。部落とか在日の存在、というものは、それを差別するものにとって「自分たちとは違う、異質な何か」と写っているのだと思う。
 これは日本における悪しき村社会の名残なのかも知れない。村落共同体において、村人以外は「外部の者」「稀人」であり「客人」、でなければ「お上」もしくは「敵」である。一方、「村人」はまさしく内部構成員であり、利害を共有している。そのなかで事件が起こっても村人は内部で処理していく。共同体という幻想から外部化されたものに対して、人間として扱わなくとも、罪悪感を得なくなってしまう。それが差別へ向かう心的背景といえる。
 村落共同体という幻想が既に存在意義を持たなくなり、好むと好まざるにかかわらずグローバリズムへ向かっていく現在、民主社会としてこれまで外部化されていたものを内部化していくのは必然である。「民族国家」という共同体幻想はもはや崩壊し、存在としての意味を失ってきた。そこにあるのは、民族国家ではなく、単なる無視質な国家システムだ。システムは常にアップデートされなければ、国民にとって使いやすいものとはならない。従って。これまで外部とされてきた在日外国人を内部化し、多様な観点からシステムを改善しつづける体制の構築が、日本の未来を保証することになる。外国人参政権の問題は、この多様性の確保と、多様性を基礎とした自治の高度化という明確なメリットがあるのだ。
 その一方。環境コストの内部化に至る過程を見ても、内部化には相当、強い心的障壁が存在し、最初は外部要因をリジェクトする方向に向かっていく。しかし内部化を拒むことで、外部者は外部としての位置づけを「押し付けられる」ことになる。国に認められないのであれば、国のためになることをするという意識も意欲も失わせる。
 ちなみに、経済社会でもっともくだらないのは、性別や国籍を人材登用の判断要因とすることである。性別で判断することで、人材の半分を失う。国籍を意識することで多様性というメリットを失うのだ。
 永住権を持つ外国人の地方参政権は、地方システムの効率化・高度化、エクセレント化に向けた第一歩となる。ここで内部化に向けた努力がなされないのであれば、日本の未来は多様性の拡大という世界の波から乗り遅れ、相対的に国際社会における地位は低下していく。
 …実は既に日本は国際社会のなかで、地位の低下を招いている。内部化を拒むものたちに、この国の将来を憂う危機感があまりにもかけているのには、いつも驚かされる。

 犯罪に対しては、日本の社会は外部化を推し進めているといっても過言ではない。
 凶悪犯罪は確実に減少を見せ、昨年の殺人事件数は過去最低となった。にもかかわらず、死刑判決はここ数年、増加しているのだ。「凶悪化しているからだ」という説明も可能だが、統計を見ても、実際の事件を見ても、犯罪が凶悪化する傾向は見て取れない。明らかなのは、報道が犯罪事実をはるかに超える凶悪なものと演出することが増えていることだ。「凶悪化」という物語が増加しているのだ。
 そのなかで死刑への容認が日本社会を覆っている。しかし死刑というのは犯罪者を「外部化」することにつながる。犯罪とは犯罪者の資質のみに起因するものではなく、犯罪者の置かれた家庭環境、教育環境、社会環境など多くの要因が複雑に絡み合って初めて成立するものだ。
 だが犯罪者を死刑とすることで、その犯罪は社会の外部へと追いやられる。犯罪を構成するひとつの要因だけを排除し、外部化したに過ぎないのに、それを見ている我々は、死刑だけで全てが終了し、何も努力する必要も考える必要も無くなる。これは「犯罪の外部化」である。
 だが、これでは犯罪発生要因の大部分は解消されることは無い。犯罪要因を社会に還元するためには、その犯罪を社会(あるいはテレビを見ている鑑賞者)に内部化していく必要があるのだ。
 今の日本では殆ど全ての要因を犯罪者個人の問題に押し付け、それを排除することで「安全・安心」を得ているが、これは単に問題から目をそらしているだけ。問題の解消ににはつながらない。
 私は「内部化ができない」という理由で死刑には反対の立場だが、死刑存置派でも、内部化の問題は共有できるのではないかと思っている。

 「自分と違う」というのは当然だ。全ての他者は自分とは違う。しかし違うものが集まるからこそ、社会は高度化する。多様性の確保は生物学的にも重要だが、社会学的にも極めて重要な問題である。その実現のためには「内部化」というプロセスがどうしても必要だと考えている。