「緩慢な自殺」って

アルコール中毒は緩慢な自殺」という見方があるそうだが、なんだか気に入らない。
 「緩慢な自殺」というのは、自ら人生を放棄し自堕落な生活を送りつつ、死を迎えるというイメージだろう。本人が自虐的に自分の状況をそう呼ぶのは勝手だ。しかし、第三者が死者に向かって、勝手に「これは緩慢な自殺」と言えるものなのだろうか?その視線にはある種の傲慢さを感じてしまうのだ。
 仮に「緩慢な自殺」が正しいとしても、それを指摘することに一体、何の意味があるんだろうか?生前、その人が味わったであろう苦しみを、それで受け止められるのだろうか?
 むしろ「自殺」という言葉を使ってしまうことで、その人の生前の苦しみから、第三者が目を背けているようにも感じてしまう。
 アル中は病気だ。アル中患者は自暴自棄に陥り、酒で現実逃避しているうちに、依存症という病気に陥っているだけだ。
 根底にあるのは死にたいという気持ちではなく、むしろ生きたいというより強い気持ちのはずなのだ。だから治療が必要なのだ。本人の力だけでは抜け出すことは非常にむずかしい。薬物依存も同様だ。本人の意思だけでは克服できない。
 マイケルジャクソンに対しても同じ表現をしたマスコミもあったが「彼の死は緩慢な自殺であった」ということで、治療という観点がすっぽり抜け落ち、本人の問題に全てを還元していくことのように見えてしまうのだ。
 助けが必要だった人間が病死することは、決して本人だけの問題ではないと思う。
 この表現に意味があるとすれば、それは死者を助けられなかった、遺族など周囲の人を慰めるということぐらいしかないだろう。