科学的・合理的な政策ができない日本

 今回の新型インフルエンザに関して、日本政府の対応は必要以上のコストをかけ、必要以上の時間、強制隔離してきた。日本政府のやり方は、またも非科学的であったのだ。

 尊敬すべき科学者である中西順子先生が新型インフルエンザの対処に関する話をブログにされている。

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雑感473-2009.5.12「何時まで続くFlu Paranoia? -騒ぎ方で民度が分かる-」
http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/zak471_475.html#zakkan473

…何も分からない時には、厳しい措置をとらねばならない。しかし、今やそれほど大きなリスクではないことが分かってきた。それに対応すべきである。

今回も、このケースだろう。しかし、どうも我が国はそれができない

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 これは、今回のインフルエンザに始まったことではなく、常々感じてきたことだ。必要以上に安全側にシフトした対策を採ることで、不要なコスト負担を国民に押し付けてきた。

 例えばBSEだ。全頭検査を行ってもリスクはさほど下がらないのはわかりきっていたにもかかわらず、「対策をしてます」という姿勢を見せるためだけに無茶な体制を構築し、国民負担を不必要に増加させた。
 ダイオキシンに関しても同様である。ダイオキシンには当初言われていたほどの毒性は無かったのは既にはっきりしている。致死量の数十倍とまで言われたダイオキシンを飲まされたとされている、どこぞの大統領候補がピンピンしているのが、その証明だ。しかし、ダイオキシン対策と称して、日本中のゴミ焼却炉に、必要以上の対策を施し、多額の金を浪費してしまった。プラントメーカーも一時的には儲けることはできたものの、その後の清掃工場の建設が激減し、青息吐息である。

 PCB処理も同様だ。PCBそのものは毒性が殆どない。触ったところで平気だ。大量に飲めば塩素による障害が起こるものの、摂取をとめれば直る。もっとも毒性が強いとされるコプラナーPCBですら、ダイオキシンと同等の毒性しかない。通常考えられる曝露では人体への影響は殆どない。

 ところが現在「JEMA対応品」と呼ばれる電機機器の処理が問題になっている。極微量、PCBが「何故か」混入しているというのだ。この処理対象品は全国で600万台とも言われている。これを金をかけて処理しようとしている。処理事業は民間企業でやることになりそうだが、処理費用は税金が大量に使われることになる。

 ほんの僅かしか混入していない、しかもさほど毒性の強くないPCBの無害化処理を大金を投じてやるというのである。気になるなら通常の焼却炉で燃やしてしまえばよいものを…。

 なぜ、ここまで日本という国は合理的な対策が取れないのか。

中西先生はこう分析する。

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第一は、リスクの大きさに応じて対策をたてるという考えがないからである。また、リスクには「大きさ」があることが分からず、ただただ、危険としか捉えないからである。

第二は、危険度が小さいと言うと、何かあった時責任を追求される、危ないと言っておいた方が身の安全である、という風潮が強いからである。最も厳しい措置をとる組織や人が偉いみたいになって、競争で厳しい措置をとる社会が作られる。

そして、末端の組織にいくほど厳しくなる。国の方針を県が受け継ぎ、市が受け継ぐ、その都度、安全への忠誠度を誇示するために、厳しい措置がとられる。

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完全に同意であるが、これに加えさせてもらえば、支持を獲得するという狙いが政府にあるのである。

政府と中央官庁にとって、安全を脅かすものの存在は実に利用しやすい。「危険、危険」と行っておいて、これみよがしにその対策を打ち出していく。これで国民は政権与党を支持し、行政に大量の金が動いていくことを黙認してしまう。リスクそのものは大したことはなくても、それを言う人はいない。

マッチポンプである。

民主党共産党などの野党も、こういう面では同罪である。今回のインフルエンザやBSEの対応ではリスク評価を全くせず、お金の垂れ流しに協力してきた。票を失いたくないからだ。

科学的・合理的な対策が政府や行政にできないということは、国や自治体が行う政策がすべて、科学的な基礎に成り立っていないということである。

例えば「無駄な公共事業を削れ」といっても、「いや○○だから必要だ」といえば、それは予算化されてしまうのだ。しかし○○がどの程度重要なのかを第三者が公正に判断できる材料は出てこない。そもそもが屁理屈に過ぎないからだ。これでは際限が無い。




その○○がどの程度重要であるのか、緊急性はどうか、コストメリットはどうか、プライオリティをどの程度付与すべきか。こういうことを客観的に判断する手法は、既に欧米では成立している。民間企業でも、公的機関でも、ある部門では○○を評価する手法がある。

ところがその手法を日本は公的機関も民間企業も保有していない。
そして日本は欧米諸国に比べ、非効率的・非科学的な政策がとられ続けるのである。