あえて言葉狩りの復活を唱えたい

 「言葉狩り」は差別語を排除し、差別感の少ない代用語への言い換えを促すものであった。差別語が無意識に使用されることで、傷つく人を減らしたい。同時に、それが差別語であるということを、その言葉の使用者に知ってもらうことで、差別そのものの減少を狙った動きでもある。

 しかしこうしたムーブメントはしばしば暴走する。しかも元々が善意をベースなので、一旦暴走が始まると、それを止めることが非常に難しい。そして善意の暴走は「例外」を認めなくなっていく。差別語アンテナに触れた言葉は、それがどういう使い方をされていようと、容赦なくきり飛ばしていくようになってしまう。

現在のように、犯罪そのものではなく犯罪者への憎しみが高まり、厳罰化が進行し。死刑が「当たり前」になりつつあるのも、また外国への不信が高まり、排外主義に陥っているのも、全ては全く同じ構造だ。「善意」がベースにある活動は、右翼・左翼を問わず、画一的に「敵」とみなすものを全て滅ぼそうとするようになる。

 結果、言葉狩りはその本来の目指すことから遠ざかり、単なる「差別語糾弾」あるいは「差別語使用者の糾弾」という形に進んで行った。筒井康孝氏の作品が槍玉に挙げられたのも「暴走化した善意」による、例外の排除の一例だったといえるだろう。

 こういう「善意の暴走」状態は反差別運動にとっても、よい結果をもたらすことはなかった。一つは反差別運動に対する嫌悪感を生み出してしまったことだ。揺り返しである。差別語を全否定するまでに至った「言葉狩り」への反感は、「反差別運動は左翼イデオロギーへの洗脳の手段」という感情すら呼び起こしてしまった。

 逆転現象である。本来は差別そのものが問題であったのが、反差別運動が問題になった。結果、「差別なんて気にする必要がない」という状態になってしまった。

 もう一つは、差別語を代用語に言い換えるということを続けたために、差別が見えにくくなった。

 当時から指摘されていたことだが、「差別語」をなくしても「差別」はなくならない。しかし代用語への言い換えで「言葉狩り」は目的を達してしまう。問題はその後だが、差別感情はそのまま生き残るので、その代用語が差別的意味合いを含んでいってしまう。「カタワ」→「障害者」→「ハンデキャッパー」or「障碍者」というように、次々と言葉を代用していかなくてはならない。

「言葉を変えても、差別へ向かうエネルギーは消えない。それが問題なのだ」(岸田秀

その「言葉狩り」が沈静化し、左翼運動も次第に減退していくなか、反差別運動も低迷していった。この間、経済の拡大もあって、目に見える差別が少なくなっていった。だが、差別のエネルギーは消えることはない。差別はより見えにくくなった。

 一方で「言葉狩り」に替わる反差別運動、反差別教育もほとんど進んではこなかった。「言葉狩りすら、行われなかった」というのが最近までの現状である。

そして、匿名が基本のインターネットで、見えにくくなった差別(または差別感情)は、一気に噴出する。
2chでは差別語を使うことがカッコイイと思っているんじゃないか?という懸念を持つほどである。

事実、「差別に関しては、何故、差別するのか?について、合理的な説明がされていると思うからOK」
などという書き込みが平気で行われてしまう。差別語どころではない。差別そのものを正当化しようとしつつあるのだ。

こういう人たちは、差別を受ける側の苦しみや怒り、悲しみに心を寄せることができない、非常に劣化した「貧困な精神」しか持ち合わせていないのである。そして、そういう人たちが増加してきている。日本人の劣化が著しく進んでいる。それは「言葉狩り」に替わるような反差別教育、活動が行われない「言葉狩りすら、行われなかった」ことの結果といえる。

もはや、ああだこうだ行っている場合じゃない。

言葉狩り」すらしなくなった日本では、差別に関して正しく考える機会が失われたのである。

何が差別か解らない。何で差別が非難されなければならないのか、理解さえしていない。そういう人間が過半数となる前に、まず何が差別かを知る機会としての「言葉狩り」を復活させる必要があるように思う。