「土人」-差別語の歴史を考える

mixiで知り合った瑠璃子さんのブログで、呉 智英氏の記事をめぐるちょっとした論争があった(論争、と呼べるものかどうかはおいといて)。その内容はともかく、そこで問題点の一つとなったのが「土人」という言葉の差別の歴史だ。

現在ではほぼ万人が差別語と認めているが、呉 智英氏は「もともと土着の人という意味であり、差別語ではなかった」とし、それが差別語であるとされたのは70年代の「言葉狩り」によるものだ、としている。

果たしてそうだろうか?
土人」の原義が「土着の人」であるというのはその通りかも知れない(あくまでここでは、かも知れない、とする)。しかし、それが差別語となったのは言葉狩りによるものだろうか?

呉 智英氏は言葉狩り以前に差別語として使われてはいなかった、として、いくつか例証をあげている。

その一つが江戸時代の文献『物類称呼』に「尾張土人」という表現があったということ。もう一つは、言語狩り以前の英和辞典を持ち出して「『新簡約英和辞典』(研究社)はIndianを「アメリ土人」としている」と記述している。後一つ出しているが、「土人」ではなく「土民」なので、これは例証になっていない。

くだんの論議(?)では、旧土人土人保護法が成立当時から差別的な意味を込めてこの名称となったのか?という問いかけがあった。
確かに当時から蔑称としての土人、という用法があれば、呉智英氏の主張は根底から覆る。

というわけで少し調べてみた。
旅研というサイトで見つけた、「土人」という言葉に関する説明では

「元来は土着の人,土地の人といった意味で,その土地に生まれ住みついている人をさした。江戸時代中・後期の文献では,広く国内各地の住民を呼ぶ一方,アイヌや外国人に対しても用いられていた。ところが,幕末になると松前藩政下の蝦夷地に居住のアイヌをさす用語として,限定的に使われだす。それまでアイヌをさしていた“夷人”あるいは“蝦夷人”から“土人”への呼びかえは,蝦夷地を日本の領土として対外的に示す政治的意図の表れであった。その後,近代の明治政府の北海道開拓は,内地からの移住民の経済活動を積極的に推し進めていく反面,アイヌ民族の生活権を官民一体となって剥奪していくこととなり,こうしたなかで“土人”の概念は未開民・劣等民として侮蔑を含んだことばに変質していった。この傾向はのちの侵略政策にも反映し,台湾や南洋群島の植民地化の過程で原住民にも適用されることになる。近代以降,土人の概念は日本の侵略行為を合理化する意味から,その行為の対象となった異民族・異国人をさし,しかも,日本人のなかに深く民族差別・人種差別意識を植えつけることになった。」

これによると、すでに幕末からアイヌ外国人差別と結びついた用法が広がっていくことがわかる。

またWallerstein さんによると、
「1871年発布の戸籍法ではアイヌは「平民」に編入されましたが、1878年にいたり「旧土人」として「平民」とは異なる扱いを受けるようになりました。北海道大学教授になった知里真志保はかつて登別村役場で戸籍係として働いていた時に、自分の戸籍に「旧土人」と記載されていたことにショックを受け、役場を退職して日雇いの仕事をしていた時に金田一京助の誘いを受けて上京し、第一高等学校に入りました。
 政府は一旦平民に編入したアイヌをなぜ「旧土人」としたのか。また平民とは異なる扱いを要するとして、「蝦夷」はともかくなぜ他の「アイノ」や「アイヌ」や「加伊」ではなく、「旧土人」を選んだのか。この点が解決されない限り、「旧土人」という言葉の暴力性の問題はクリアできないと思います」

この指摘はやはり当初から日本政府(もしくは和人)はアイヌへの差別意識を持って「土人」という名称を選んでいたことを匂わせる。

ここで既に呉氏の言葉狩りまで差別的な意味は無かったという主張には正当性がなくなってしまう。それを擁護する佐々木氏の主張も、全て空振りとなってしまった。


大和王権時代からの差別

本来、これでこの話は終わりなんであるが、しかしちょっとまてよ?と思った。本当に「土人」の原義に差別的な意味は無かったのだろうか?

アイヌを差別的に土人と呼ぶことを松前藩が選んだのであれば、その当時(つまり江戸時代)から「土人」が蔑称として使われていたという傍証となりそうではないか。

現在、全ての辞書で原義は「土着の人」と記されているだろうだが、しかし他にも「土民」という言葉もある。何故土人と土民を区別する必要があったのだろうか?

土人」という表現は何時ごろから使われ始めたのか?

興味深い記述を見つけた

★【薩摩国風土記

「閼駝の郡 竹屋の村」-----風土記の心によらば、皇祖哀能忍耆の命(天孫降臨の神)
             クシフ
日向の国贈唹の郡、高茅穂の榱生の峰にあまくだりまして、これより薩摩国閼駝の郡の竹屋の村にうつり給ひて、

土人竹屋守が女をめして、その腹に二人の男子をもうけ

給ひけるとき、かの所の竹を カタナ につくりて、臍の緒をきり給ひたりけり。その竹は今もありといふ。


★【肥後国風土記

景行天皇)火の国に幸して海を渡ります間に、日没れ夜暗くして、着く所を知らざりき。忽ちに火の光ありて、

遥かに行く前に見えき。天皇、掉人に勅りたまひしく、「行く前に火見ゆ。直に指して往け」と。

勅のまにまに往くに、果ひに岸に着くことを得たりき。すなはち、勅りたまいしく、「火の燎ゆる処は、

こは何と号くる界ぞ。燎ゆる火はまた何の火ぞ」と。「土人」奏言ししく、「こはこれ、火の国八代の郡の

火の邑なり。ただ、火の由を審かにせず」と。時に、郡臣に詔りたまひしく、「燎ゆる火は、俗の火に

あらじ。火の国の由、然るゆえを知る」と。(釈日本紀 巻十)


薩摩の国風土記、肥後の国風土記の成立時期はわからない。が、少なくとも江戸期以前には土人という表現が成立していた可能性は高い。

ちなみに、これらの風土記は何れも土蜘蛛(つちぐも)に関する記述である。土蜘蛛とは神武天皇系の大和王朝成立以前の先住民のこと。神武の東征(大和王朝の成立)が弥生時代古墳時代初期であるので、彼らは恐らく縄文人である。

この土蜘蛛を、大和朝廷はとにかく忌み嫌っている。
そこに住んでいるというだけで、ある時は騙し打ちにし、ある時は多勢で急襲し、虐殺を繰り返している。神武天皇も、「一緒に食事をしよう」と誘いをかけて、だまし討ちにして、エウカシ、オトウカシという土蜘蛛の一族を虐殺している。

ヤマトタケルの武勇伝の一つであるクマソ征伐も、いわば土蜘蛛の虐殺の一例だ。

その土蜘蛛は、「支配を受けなければ殺すぞ!」と言われただけで平身低頭「私が悪かった」と土下座する。まるで戦闘というものを知らないかの様だ。

中には抵抗勢力もいたが、多勢に無勢。縄文vs弥生では戦いにならない(縄文人は武器を発明しなかった)。

そして土蜘蛛は全て滅ぼされるか、大和王権に恭順し、その奴隷(あるいは奴隷に近い存在)となっていった。大和朝廷は日本で初めて民族差別というものを持ち込んだといえるのかも知れない。

そして、土蜘蛛が大和王権に恭順し、奴隷化したその時点で、彼らは土人と呼ばれるようになるのではないだろうか?

風土記内で両方の単語が両立していることに加え、天皇に土地の案内や説明をしたり、あるいは天皇土人の女に子供産ませたという記述から、大和王朝にとって「土人」は危険な存在でないことは明らかである。しかし、それは大和王権の人間ではない。先住民である。


呉 智英氏が引用して見せた、『物類称呼』に「尾張土人」という表現に、侮蔑的な意思が存在していない、とは言い切れない。その記事「「虹」のことを「鍋づる」という}というのは、尾張土人が異文化民族である可能性を示唆しているのではないか。

「サンカ」と呼ばれた漂白民族は、大正時代まで、日本政府に組み込まれず、独自の組織で存在していたといわれる。村々をわたり、芝居などを見せて日銭を稼ぐ「川原乞食」は、サンカの一族と言われている。江戸時代のエタ・ヒニンもサンカの源流という説もある。尾張にも、サンカのような異文化、先住民が居た可能性もある。

そうでなくとも、土人という言葉には「色黒の未開人」という意味合いも含まれる。
明治初期の漁村の写真を見ると、日本人は半裸で色が黒く、腰蓑だけの、まさに差別的に使われる「未開人」のイメージに近い。

江戸期でも、江戸や京都、大阪の人と尾張や伊勢の漁民は、異人種とも思えるほど、その姿は異なっていただろうことは想像に難くない。

そういう人たちを指して「土人」と呼んでいるのであれば、「尾張土人」が差別的用法でないという指摘すら、確実なものと言えなくなってきたではないか。

こうしてみると、そもそも「土人」という言葉は、差別的な意味合いをもって発生した言葉である可能性を捨てきれなくなった。