死刑をやめよう

激しく久しぶりの更新で大変申し訳ありません。


国連の自由権規約委員会が日本の人権保護状況に関する審査会合を開きました。

以下引用

日本政府は会合で、極めて凶悪な犯罪には死刑もやむを得ないとの国内世論があることなどを踏まえ、死刑制度を存続する方針を説明。これに対し、委員の間からは「人権問題である(死刑)制度の存廃を世論調査で決めるべきではない」などと批判的な意見が続出した。 
時事通信

引用終わり

「人権問題である(死刑)制度の存廃を世論調査で決めるべきではない」という言葉が心に響きますね。


憲法にも基本的人権の保障を述べている国が、「世論だから」で人権無視をして良い訳がない。

実際、フランスでは死刑廃止当時は国民6割が死刑存置派でした。しかし、死刑に関する多くの、長い議論の末、死刑に意味が無いという結論に達し、国会でこれを決定。その後死刑存置派は4割に減少しましたね。

罪に対する罰のあり方としては、犯罪者の「自由」を制限することを刑法上、最大の刑罰であるべきです。「人を殺してはいけない」という原則で成り立っている国が、たとえそれが殺人犯であれ、人を殺すというのは重大な矛盾です。

もちろん、死刑廃止国でも被害者遺族が加害者に対して「殺してやりたい」という報復の念が消えるわけでは無いでしょう。

しかし、身内が殺されたというのは人間にとって異常な事態です。その報復感情は通常の精神状態とは異なります。そうした、とても平静を保てないような状況にある人間の報復感情を100%実現し、死刑を決めるのであれば、もはや裁判所は必要ありません。法治国家を否定することになります。

極端に言えば「こいつは人殺しだから俺が殺した」で通ってしまいます。これでは殺し合いが果てしなく続くことになる。
ある意味では、保安上の観点からも、死刑制度は問題を孕んでいるといえます。

もともと、刑事裁判とは「被害者による私的報復を禁じ」た上で成り立っています。その法廷が私的な報復感情に流されかけているのが、今の日本の状況とように見えます。

この状態で裁判員制度が始まれば、刑事裁判が私的報復感情に流されていき、その本来の機能(罪の軽重を第3者の目で判断し、“適正な”罰を科す)を失うことにもなりかねません。

これを防ぐには、やはり裁判員制度の当面の延期と、死刑の廃止しかないように思います。

なお、日本の大多数の世論が「死刑存置」であるという事は、死刑が正しいという証明ではなく、人権教育が貧困であることの証明だと思います。