日本人には奴隷が似合う

別に冗談でもなんでもない。

日本人には“奴隷”が最も適している。


全ての意思決定を「役所」と「政治屋」に任せ、自ら社会に貢献することもなく、テレビに踊らされ、格差社会をそこそこ楽しんで日々生活している。

「何かおかしい」
そう感じながらも、下手に主張すると“KY”と忌み嫌われるので何も言えない。

「出る杭は打たれる」というのは、「出る杭を打つ」ことしか出来ない人々が世の中にいかに多いかを示している。人は自分よりちょっと優れた人間を容易には認められないが、とても優秀な「東大卒」のような人々にはプライドもなにも金繰りすててヘイコラしてしまっている。

「国家」という言葉は国と家とを混同し、権威を国に求めている。そこには庇護される国民と、庇護する国家という関係しかない。つまり国民は国家に内包されるという考え方である。

その視野では、国民は国家に守られる存在として、国家への忠誠と従順が求められていく。だが、これは奴隷そのものの姿である。

権威主義とは国民が奴隷であることを基本としているのだ。

これに対して民主主義は「国」をシステムと位置づける。
システムであるから、そこで求められるのはより合理的・効率的であることであり、さらにシステムの運用者は国民である。従って国民のためであればシステムはいつでも改変することができる。
 その意思決定をするのは国民(もしくはその意思を受けた代理人、すなわち代議士)である。

しかし日本人は国をシステムとして考えることがどうも苦手である。身分制度が無くなって100年以上もたつのに、まだ「お上」という感覚から抜け出せないのだ。

国家の言いなりになっている国民など、真の国民ではない。奴隷なのだ。