テレビマスコミの病理③ 緩慢なる自殺へ…

 最近のテレビは、政府への擦り寄りが激しくなった。報道機関としての自立性を自ら棄てようとしているかのようにさえ見える。

 小泉政権の終盤で、まさか小泉ドラマをテレビで放映されるとは思わなかった。さらにその後には安倍ドラマまで放映された。ヘドが出るほど甘ったるい、あからさまなる、政権へのゴマ擦りだ。

 NHKの番組改編問題の真の問題点は、そもそも自民党議員に「こんなんやってます」って説明しに行く事である。報道した後に、問い合わせがあれば、説明する必要もあろうが、放送する前にご注進するなど、マスメディアとしては「恥を知れ」と言いたい。もはや報道機関としての自殺行為に等しい。

 報道機関は時に国会議員の不利益になることも報道しなければならないだから、常日ごろから議員の顔色を伺っていてはいけないのだ。こんな弱腰の姿勢が放送事業への政治介入を許してしまうことになる。しかも今はそれにおとなしく従っている、というより、積極的に擦り寄ろうとしているように見える。

 テレビ報道で、記者がぶら下がりでコメントを取る姿を見ても、いかにもサラリーマン記者、という感覚から抜けない。その日の出来事に対して単にコメントを求め、総理の適当な返事をそのまま伝えるだけ。それがその時点での政局に何の関係があるのかも分からないまま、ニュース・バリューの考察も無しにタレ流すだけ。

 そうせざるを得ない理由もある程度想像できる。記者クラブの問題である。役所と記者クラブは、利害関係を有している。記者クラブとして、こういう形で会見を頼む、と申請する先は役所だ。従って記者クラブとしてあまり変なことや、あまり相手を怒らせるようなことばかりやっていると、会見をしてもらえなくなる、という恐れがあるので、あまり突っ込んだ質問もできない雰囲気があるはずなのである。

 また、大手マスコミでは記者クラブに在籍するのは若手の記者であり、ベテランはぶら下がりのような仕事はしない。従って、ベテラン記者の鋭い突っ込みはテレビでお目にかかることはできない。
 これは日本のマスコミ特有の現象のようだ。米国の大統領の記者会見を見ていると、大統領も一目置くようなベテラン記者が前列に陣取り、実に鋭い質問を浴びせるのを見ることができる。
 だが日本でこういう場面はあまり見ることができない。ベテランの政治記者は、記者というより政治家に近くなって、批判能力を失ってしまっているからだ。
 結局、権力に近いところで仕事をしていると、そこに染まってしまうのが日本人の弱さなのかもしれない。

 政治から自立した存在としてのテレビマスコミというのは、もはや幻想なのかも知れない。

 インターネットの市民メディアである「News for the People in Japan(NPJ)」の設立集会が先月に執り行われたが、その席上、同団体の代表である梓澤和幸氏はイラク人質問題の際、イラク人から、「米軍の空爆によって、ファルージャのの市民が犠牲となっていることを日本の人たちに伝えてほしい」「日本の人たちは友人だと伝えてほしい」といわれたものの、日本メディアは人質の責任論に終始し、このメッセージは伝えられなかった、と述べたという。

また、「発掘!あるある大辞典」捏造問題で外部調査委員会の委員を務めている、作家の吉岡氏は調査の過程で、一人ひとりの記者の「知りたい」という要求が減衰していることを感じたそうだ。
http://www.news.janjan.jp/media/0801/0801189152/1.php

 いま、テレビマスコミは緩慢なる自殺に向かっている