テレビマスコミの病理① ステレオタイプ・ストーリー

 テレビ報道の内容が最近ますます低質化しているように思う。

 犯罪報道は異様なまでに犯人に対する憎悪を煽り、視聴者の判断を狂わせている。政治に対しては、あからさまに与党に擦り寄り、批判ができなくなってきた。世界情勢に関する報道については実にお粗末なものとなり、重要な情報があまり伝えられていない。スポーツ番組は日本が絡む部分だけしか情報が伝えられない。そして環境問題に関しても思考停止に陥っているように思える。

 光市事件では、弁護士側へのバッシングが激しかった。テレビは被害者側に擦り寄り、被疑者の弁護団の説明を殆ど伝えず、むしろ「異様なもの」として切り捨ててしまった。その結果が、3,000にも及ぶ弁護団への懲罰請求という、極めて異常な事態へと発展してしまった。
 これに対して弁護団側は放送倫理委員会(BPO)に対して、検証を依頼している。今後具体的に検討が進められていくようだが、どこまでキチンと検証できるかは定かではない。

 犯罪報道には、慎重な姿勢がなければならない。テレビは警察でも、検察でもなく、裁判所でもない。強言ってみれば「探偵ごっこ」を逐一報道しているだけだ。そこに報道としての意義などない。それだけならまだしも、犯人扱いされて、人生を狂わされる人間も出てくることになる。
 事実だけを伝えればよいのに、「誰が犯人に近いか」とか「如何に犯人が異常であるか」などを伝える必要はない。まして「精神科に通院歴がある」など、全く余計な情報であり、単に差別をあおるだけだ。

 なぜ、こういう事態になっているのか。

 事件には誰しも興味がある。事件報道は、それが衝撃的であればあるほど、視聴率を稼げる。だから無意味な「探偵ごっこ」が繰り返されてしまう。

 ところが、視聴者は凶悪犯と自分との共通性を示されると、それが真実であっても非常に不快感を覚える。テレビとしては不快感を視聴者に与えると視聴率に影響すると考えるため、その不快感をできるだけ与えないようにする。

 つまり、凶悪犯罪の犯人と視聴者とは「全く違うものである」という物語を提示することによって、視聴者とテレビは共通の利益を得られるのだ。
 この構造があるため、あるときには凶悪犯を「精神異常者」とするために「通院歴」を伝える。これで精神を病んだ異常な人間だから異常な殺人事件だと視聴者は納得する。あるいは「外国人」とする。これで日本人である自分は怒りを外国人にぶつけるだけで済むのだ。そして「最近の心のない若者」とすることで、良識ある自分の健全性を再確認する。あるいは異常な嗜好を持つ人間として犯人の過去を調べ上げ、犯人が異常者であると思える点を見つけ出してくるのである。それを見て視聴者はまたも異常者に対して憎悪を燃やしていく。

 このようにテレビは「健全な視聴者」と「異常な凶悪犯」をステレオタイプ化して提示することで、視聴者は安心感を得るととともに、異常なる凶悪犯に対して、それこそ「異常なる憎悪」を燃やし、一斉に厳罰化へと進んでいくことになる。

 光市事件はこうした構造の上に乗っかって、世論形成が歪められた最大の事例と言ってよいだろう。

 だが現実には健全なる視聴者と異常なる凶悪犯の間には、大した差はない。誰でも、いつでも凶悪犯になりうるのである。その視点がいまやテレビ報道から完全に失われつつある。

 凶悪犯と「健全なる視聴者」の問題の共有感は犯罪発生の抑止効果をもつと考えられる。すなわち、いつ自分が犯罪者になるかもしれないという感覚が犯罪行動抑止への自己啓発となるのである。

 だが、今は憎悪しかない。これこそが異常な状態である。逆説的に言えば、事件を起こした人間の方がより人間らしくあり、それに憎悪を燃やす健全なるテレビ視聴者こそが怪物化しつつあるともいえる。